間違った優しさ

 

 

花ひらき

今ここを天国に。 

 

 

 

間違った優しさというものがあります。



それは、
「相手のためを思って」というもの。

 

 


少し前、

テレビのCMで「あなたの為だから・・」というセリフのものがあって、
思わず笑って見ていたのだけど、
覚えている人もいるのではないかな。

 

 



この「あなたの為」という優しさにみえる行為。

実は「自分の為」というものが結構多いこと気づいてますか?

 

 



私は、亡くなった人との交流ができるのだけど、
そのせいか、
大切な人を亡くして悲しんでいる友人を元気にしたいと相談を受けることがあります。

 



でも、
そのご相談、
「友人の為」という優しさにみえるのだけど、
実は相談してこられたご自身の為のものであるということが多いのです。

 



というのは、
その人自身の中にある「喪失感」「悲しさ」に触れたくないからなのです。

 



友人の悲しんでいる姿を見ると、
自分の中の触れたくない感情に触れて落ち着かないから。

 

 


その感情を感じたくない為に、友人を元気にしたいと思っているのです。
(投影をしていることに気づきますか?)

 

 

友人が笑顔なら、自分の中の「悲しみ」を感じることはないですから。

 

 

 



だから、
ほんとうは優しさではないのです。

 




大切な人を亡くして、悲しみを感じ尽した人ならば、
その人が気のすむまで泣かしてあげようと見守ることができるのです。

 



見守ってもらう中で、
素直に悲しみを感じられることがどれほどの安心か知っているから。

 

 

 

 

そこには、どんなに悲しんでいようとも大丈夫という信頼があるから。
(悲しみを感じ尽して解放してきた自己信頼があるから思えることです)

 

 


信頼があるから、悲しんでいるその人そのままを見守ってあげれるのです。
これが、相手が望むほんとうの優しさなのではないかと思うのです。

 

 

 




とはいえ、感情に蓋をしている人が多いですから、
元気づけることが優しさだと世の中的には思われていて、

このことに気づけないことでもあります。

 

 

 

だから、
そうしてしまった自分を責める必要もないのですけれど、
「信頼」で見守ってあげることもひとつの選択として持っていていただければと思います。

 




そして、誰かの悲しむ姿を見ていられないのならば、

自分の中に解放の時がきている悲しみがあるということ。




ぜひ、ご自分の中の悲しみを感じてあげてください。
悲しみを感じるのは、
愛していたからの証拠ですから。

 



この体験をしていると、
友人にも思いっきり気のすむまで泣かしてあげよ、

そう見守ることができるあなたになれますから。

 

 






私自身、身近な人達を見送ってみて感じることは、
思いっきり泣ける環境がある有難さと、
そんな私をあたたかく見守ってくれた人の優しさに安心していたということ。

 



愛していたから悲しいのです。
愛していたから喪失感に苦しいのです。
愛すればこそ。
自分の中にその人を思う愛があるから。



愛が無ければ悲しくも喪失感に苦しいこともないのですから。

 

 

 

 

 

もし今、大切な人を亡くして悲しみの中にあなたがいるのならば、
泣いてくださいね。
涙が枯れるまで。



そして、それだけ愛していたのだと感じてもらえたらと思うのです。

 

 

そして、愛は空間も時間も超えて大切な人のもとに届きます。
愛はそういうものなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真はいつもの散歩道。
裏山での秋の1枚。